インディアン・ローズウッドのフラメンコ・ギター

ギター制作家レスター・デボー(Lester DeVoe)のギター

レスター・デボー氏

レスター・デボーの歩み No.1

始めに

 2000年1月のレスター・デボー氏からのニュース・レターでは、彼の近況やギター製作に対する姿勢、彼のギターを伴侶にしたアーティストについて、彼自ら語っています。 この翻訳は彼の許可を得た上で為されました。

 “この新しいミレニアム2000年は、私にとっては製作家として25周年に当たります。思えば、この25年は製作に励み、かつ楽しみの多い時を過ごしました。 1970年代の始め、私はカリフォルニアのベイ・エリアでクラシック・ギターの演奏とその研究を始めました。 その当時、私は高等学校や地域の大学での教職の免状を得ることができ、保健体育を教えていました。

 最初、ギターは自分の為に作ってみました。しかし、2本目はその地域のプロ奏者ドナ・レイが購入致しました。 双方満足していました。教師の仕事はパート・タイムであったので、収入を補足する為にギターを作ることを考え始めました。 しばらくして、自分の可能性は演奏より製作の方に向いているのでは、と感じていました。

 技法については書物を通して、また、カリフォルニア州、サン・ホセのミッションの今は亡き製作家、ガブリエル・サウサが収集していた楽器から学びました。 ガブリエルは退職した配管工で、あらゆる楽器を一目見ただけで自分で作ってしまうほどの技術を持っていました。 彼は多くの弦楽器を作りました。例えば、クラシック、フラメンコ、ハープ・ギター、マンドリン、リュート、ポルトガル・ギター、バイオリン、そしてハーディー・ガーディーさえも。 私は、最初、収集された楽器の中の、前アントニオ・トーレス(ホセ・ペルナス/Jose Pernas)からスペイン製作家の系譜の‘根幹’をなす偉大な製作家群の クラシックやフラメンコ・ギターに興味を持ちました。その系譜の‘枝葉’となる製作家の中で特に気に入ったのは、トーレスからマヌエル・ラミレス、サントス・ヘルナデスまで、でした。 私はまた、ドミンゴ・エステソやマルセロ・バルベロのギターに大変感銘を受けました。サントス・エルナンデス、ヘルマン・ハウザー、フランシスコ・シンプリシオの楽器も貴重な研究資料でした。 私はまだ初心者でしたが、ガブリエルは修理や彼の集めた楽器の展示会等の手配を私に任せてくれました。 こうした機会に、歯科医の使う内視鏡や電灯で、ギターを素晴らしい音色を生み出す働きをするその内部構造を調べてみました。私のギターの先生マリアーノ・コルドバは、また、1924年製の素晴らしいサントス・エルナンデスを持っていました。私は、この楽器の寸法を測ったり、修理や修復をする機会を得ました。

 私が教えていた学校の木工部で、まず工具、留め金、型を作ることから始める必要があったので、最初のギターは丸一年掛かりました。

 1981年、私のフラメンコ・ギターの1台が、伝説のフラメンコ・ギタリスト、サビーカスに見出され、彼はニュー・ヨークのあるショップでそのギターを購入しました。 彼は、彼が亡くなる1990年まで、コンサートやレコーディングで私のギターを演奏しました。1980年の中ごろ、ファン・マルティンに出会い、彼との長い親交が始まりました。

 1986年、私はサウス・ベイ・ギター・ソサイアティ(South Bay Guitar Society)を創設し、1992年にマイン(Maine)に移住するまで、中心となって活動しました。移住する前に、その協会の会長の立場を友人のダニエル・ローストに任せました。 彼の指導力で、この協会は今ではアメリカで最も大きく活動的な協会の一つへと発展いたしました。

 マインに移住してまもなく、パコ・デ・ルシアにギターを作る幸運に恵まれました。 私のギターを、カルロス・サウラの映画“フラメンコ”や、また別の映画“ドン・フアン・デマルコ”からのブライアン・アダムスの歌"Have You Ever Really Loved a Woman"の中で演奏したことから、 幅広い聴衆の中に私の評判が広まり始めました。

 この数年間、ヨーロッパへ定期的に旅行して、ギター用材料を探したり、私のギターを見てもらう機会を求めました。 旅行は毎回、私の顧客や新たに友達を得たりして楽しく過ごしました。私の娘エミリーとエレーヌは、最近の2回の旅行に代わる代わる私に同伴致しました。 ですから、良い思い出を彼女達と共有しています。この4月の旅行では、下の娘エレーヌと出かけ、スペインやフランスで冒険的な旅をしました。 我々はそれぞれギターを背負って、マドリードからバレンシアへ材料を買いに、それからコルドバでは、ビセンテ・アミーゴに会いました。 私の友人でフラメンコ・ギタリストのテイェが、コルドバのジプシー・ギタリスト、フアン・ムニョス・プラントンに紹介してくれました。 私は彼のアンダルシア流のスペイン語はさっぱり解りませんでしたけども、彼と友達になり、彼は、そこでの1週間程の間、我々のガイドとしてお付き合いしてくれました。

 彼は我々を色々な所へ案内してくれ、その時はイースター際の前の“聖なる週間“(Semana Santa)で、ホテルは予約でいっぱいで、 我々が立ち往生してしまった時、泊まり先を手配までしてくれました。エレーヌと私は、ヴィセンテ・アミーゴを彼の自宅に訪れて彼の演奏を聞いたときには、本当に感動いたしました。 ほんの数分私のギターを演奏した後、彼は、彼の心の中で、ギターの音に“魂”を実際に感じたと言ってくれて、私のギターを両方購入いたしました。 彼は最近の連絡で、今新しいCDを私のギターで録音していると言っていました。

 それから、親しい友人、サンチェス兄弟とその家族を訪問する為、南フランスのビアリッツとパウへ向かいました。 何年にも渡り、セレドニオとラモンは心から我々を歓待してくれ、彼らの心暖かく才能豊かな家族の中にも歓迎されました。 元来セヴィリア出身なのですが、フラメンコ・ギタリスト、エルマノス・サンチェス(兄弟)は、若い頃両親と南フランスへ引っ越してきました。 彼らは、可愛らしい姉妹ベルナデットとエヴェリンと結婚し、それぞれ利発で才能ある子供に恵まれています。 ベルナデットとエヴェリンが料理してくれました素晴らしいご馳走は長く忘れないでしょう。サンチェス兄弟は、ヨーロッパで、コンサートやワークショップ等で忙しいスケジュールをこなしています。

 私の新しいモデルと値段について一言。スペイン糸杉の供給の減少にともない、その分値段がかなり上がって来ていますので、 私は国産(アメリカ)材のフラメンコ・ギターを手始めのギター・モデルとして提供しています。そのモントレイ糸杉は、1984年カリフォルニア州のハーフ・ムーン・ベイで、 私自身が切り出し、手斧で割った木材です。 イングルマン・スプルースの表板は、アメリカでやはり私自身がカットした材料です。両方のギター材の組み合わせは美しい音を奏でます。

 ギターの裏・横に使う木材の密度の度合いにより求めるギターの音色が決定できます。ギターの裏・横に使う木材の密度が濃くなるにしたがい、音も豊かになって行きます。 密度が淡くなると、明るい音色ではあるのですが、まだ荒れた要素も含んでいます、そして最高に密度の濃い木材の場合、音に力強さ、豊かさ、また洗練された音が加わってきます。 フラメンコ・ギターに使われる材料も、この様に密度の濃淡により、フラメンコ・ギターの音色に影響を与えます。
モントレイ糸杉、スペイン糸杉、イタリア糸杉、インディアン・ローズウッド、ブラジリアン・ローズウッド

 表板にふさわしいのは、やはり、ジャーマン・スプルース、アメリカやカナダ産のイングルマン・スプルースです。 ウェスタン・レッド・セダーはフラメンコ・ギターの素晴らしい表板となるのですが、スプルース程一般的ではありません。

 私はネックにはスペイン・セダーを使います。以前なかなか手に入りにくかったのですが、タバコ貯蔵箱や葉巻箱などに一般的な材料として使われるので、今ではもう少し供給可能となっています。 私は黒檀の指板の下に、ネックに安定を更に増すために、グラファイトとエポキシの合成材を敷いています。これはほとんど余分な重量を掛けません。 私はまた、“分割ネック方式”と私が呼んでいる方法を試みています。この方式は、ネック材を今一度ノコギリで裁断し、最高に強力で頑固な“ハイ・テク”エポキシ接着剤で貼り合わせています。 ビセンテ・アミーゴはこの種のギターの原型のものを使っています。

 私のギターを使ってコンサートやCDを録音しているクラッシクやラテン・アーティストの中には、ブライアン・アマドール、ケン・アンドレイド、ゴヴィ、ロン・マレイ、ステヴァン・パセロ、 ミカエル・シルヴェストリ、トマス・ロード、ロバート・ワード等

 ここに前回のニュースレター以後に行われたいくつかの雑誌取材記事のリストがあります:

  • “アコースティック・ギター”1999年11月号(アメリカ)
  • “パセオ・フラメンコ” 1999年7月号、No.179(日本) 私の友人鷹仲亜希夫とのインタビューにて
  • “スド・ウエスト”1997年11月29日(フランス)、フランソワ・バジュによる

 とても好意的な新聞記事です。

 上の新聞記事の内容の大雑把な英訳をここに紹介いたします:

“デボーの他に無し”

アメリカ人製作家レスター・デボーは世界で最高のフラメンコ・ギターを作ります。ビアッリツにてエルマノス・サンチェスを前に、ギターの発表会が催されました。 ラモンとセレドニオは彼らが呼吸するのと同じ位容易にフラメンコを演奏しました;移ろいやすい気性のアンダルシアの悲しみを込めて。彼らは自身の個性の中から力強い和声を引き出していました。 彼らは、そんなに悪くない自身のギターを控えめに奏でていました。1994年パウの頂上で、パコ・デ・ルシアとステージに登る前に、ラモン・サンチェスは言っていました、 “ギターを楽器として考えてはいけません、ギターが語るように弾く必要がある“(スドーウエスト新聞94年9月23日)と。 先週の日曜日、バスク海岸の2人の兄弟が、アメリカ、サウス・パリス、マインのフラメンコ・ギターの“宝石商”レスター・デボーにデザインされたギターを演奏しました。 彼らは演奏し、まるでクリスマス・ツリーの前に居るかのように、目を大きく開けてギターを見つめていました。

 レスター・デボーは、“ラ・ネグレス”のパンチョアのレストランに招待され、専門家、学習者、熱心なファン、初心者の人々と出会いました。 彼は皆に、この独学のアメリカ人によって見出されたフラメンコ・ギター・サウンドの秘密について解説いたしました: “自分の満足するギターが見つからなかった理由で、わたしは最初のギターを作りました “ スペインの製作家は、この控えめな男性の名前を聞くや否や、自身の(コルドバ)帽子を脱ぐでしょう。古い“アントニオ・トーレス”、エルナンデスの工房からの楽器やコンデも今や不運です。 デボー、この無類の人は、サビーカスの指を奪い、カルロス・サウラ監督の映画“フラメンコ”でのパコ・デ・ルシアにギターを作りました。 エルマノス・サンチェスはこのギターの演奏に絶妙な大家ぶりを表しました。
しかし、デボー・ギターを手に入れる前に、皆はブタの貯金箱を砕き、帽子を売り、食事もダイエット気味にしなければなりません!?  彼のギター製作は1年に12本、それぞれのギターに150時間掛かります。 このパンチョアのレストランで、音楽教師がキューバ産のネックをカトリックの聖体器のように見つめたり、自身の好みのコードを最大限の楽しみを得るように試弾きしたり、 目を閉じたりまた明けたりしている姿を見ているのは楽しい。皆夢見ているようでした。

“ギターのロールス・ロイス”

 この夕べ、マイン出身のこの製作家によって発見された、2台のギターの響きを言い表すのに、ロールス・ロイスという言葉が何度も使われました。 スペイン糸杉のギターは根源的、直接的で古風といって良い趣を表し、カンテの伴奏にふさわしい音を表出していました。 インディアン・ローズウッドのギターは、もっと深い音を、コンサートに必要な表現力を加味していました。ラモンとセレドニオの2人はそれぞれのデボー・ギターを演奏し、これらのギターの特性がよく出ていました。 皆は、彼らの演奏を聞きながら、ジャーマン・スプルースのサウンド・ボードと、ブラジリアン・ローズウッドの駒、キューバ産セダ-のネック、黒檀の指板、メープル材の縁入れ等、 これらの材料から何故魔法の音が可能なのか、思いを巡らせていました。

シープレスでもローズウッドでも20年ねかせた材料は、そのサウンド・ボックスに、弾き込んで行くとギターの所有者をより豊かにするような心が与えられているのです。 その一つを手に入れるにはあらゆる努力が必要です。(ビアリッツは南フランスに位置する都市で、“ラ・ネグレッス”はビアリッツの中の地区です)

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デボー作のローズウッドのクラシックとフラメンコ・ギターの主な特徴

表板:ジャーマン・スプルース;アービン・スローン黒檀ツマミのゴールド糸巻き;
ブラジリアン・ローズウッドの天神ベニア貼り、駒と縁巻き;スペイン・セーダ-
ネック;バラの口輪ロゼット
こちらでご覧いただけます。

ノート

レスター・デボー氏はこの9月よりマインから以下の住所へ移り、
製作活動の新しい拠点としています。

Lester DeVoe
680 Camino Roble
Nipomo,California 93444
USA
Fax/Phone: 805-931-0313
E-Mail: devoeguitars@gmail.com

翻訳:戸神敏彦(M.G Company,Inc. = Guitar-Harp.com
ご質問:お気軽にお問い合わせください [メール]
M.G Company
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